過去と未来と岐阜と

岐阜・柳ケ瀬といえば
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昭和の柳ヶ瀬・復興から繁栄へ

はじめに

- 歴史を振り返る -

柳ヶ瀬は大きな戦争で焼け野原になりながらも、

 

わずか数年でみごとに復活します。
 
そして全国的にも有数の繁華街となりました。

 

 その軌跡を辿ります。
© Gifu City Museum of History

楽市楽座

- 織田信長の経済政策 -

 

永禄11年(1568) 織田信長が
 
斎藤竜興を滅ぼして岐阜へ入ると、
 
荒廃した岐阜地域の復興するため
 
楽市・楽座の制札を発給しました。
 
織田信長
 
岐阜に入城した信長公は、
戦乱で荒廃した町を復興させるために
「楽市楽座」の政策を打ち出し、
経済の活性化を図りました。
 
これは特定の商人しか
商売が許されなかった時代に、
誰もが自由に商売ができるという
画期的なシステムでした。
また、「兵農分離」により、
専業の武士団を組織して
兵士と土地を切り離すことで、
経済力、武力、生産力をそれぞれ向上させ、
人が集まる城下町を作り上げました。
 
岐阜は、織田信長により
商業が発展しました。
 

戦後から繁栄へ

- 復興を支えたもの -

 

明治21年・岐阜駅が
 
元町から現在の位置へ移転し、
 
明治22年・岐阜市政の施行とともに、
 
町名として「柳ケ瀬」が誕生します。
 
そして昭和に入り
 
第二次世界大戦が勃発しました。
 
 
 
 
© 岐阜平和通信
昭和20年
©    「お話・岐阜の歴史」サークル
   
昭和20年7月9日の空襲で
半世紀にわたって
築き上げられた柳ヶ瀬の街は
木造家屋がほとんどであったため
跡かたもなく焼失し、
コンクリートの建物の外壁だけが残る
瓦礫の街と化しました。
 
そして30年代に入ると
高度成長の時代に突入していきます。
柳ヶ瀬も例外でなく
経済復調の恩恵をうけました。
 
戦後の柳ケ瀬の復興を支えたのは娯楽でした。
空襲で焼失した建物を
バラック掛けでいち早く再建し、
映画を上映しました。
 
昭和30年代の柳ヶ瀬と映画館
© 「お話・岐阜の歴史」サークル
 
その後柳ヶ瀬は
全国的に有数な繁華街として発展していきます。
 
昭和41年に美川憲一が歌い
大ヒットした「柳ケ瀬ブルース」
に歌われて全国的に名を広め
 
時には肩がすれ合うような混雑ぶりで
岐阜市の中心商店街・歓楽街として栄え
小売店や飲食店はもちろん
百貨店などの大型店舗も軒を連ねていました
 
名古屋からも遊びに来る人も多く
「柳ブラ」(柳ヶ瀬をブラブラする)
と言う言葉も生まれたほどでした
 
 
©    「お話・岐阜の歴史」サークル

急激な変化

- しのびよる陰 -

40年代になると柳ヶ瀬は
 
トップレベルの商店が多く
 
業種も豊富で
 
全てが揃った街の姿になっていきました。
 
しかし30年代に普及した三種の神器
 
(テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)が
 
カラーテレビ・自動車・クーラー
 
の3つになって生活が変化し始め、
 
車社会に移っていきます。
 
©    「お話・岐阜の歴史」サークル
にぎわう人々
©    「お話・岐阜の歴史」サークル
 
昭和20年代後半ごろ出現したテレビは
30年代中頃からその普及速度を速め
実際に各家庭にテレビが普及したのは
「昭和39年の東京オリンピック」でした。
その間カラー放送も開始され
ますます「茶の間の必需品」となり
生活の中心になりました。 
 「一軒に一台のカラーテレビ」の存在は
映画事業に大きな影響を与え、
映画を見るために
柳ヶ瀬に足を運ぶ人の数も
大きく減少しました。
映画と共に、
ショッピングなど楽しみを求めて
盛り場、柳ヶ瀬に足を運ぶ市民も
少なくなりました。
 
平成時代に突入した頃より、
車社会の進展による
大型ショッピングセンターの郊外進出や
ネット通販の普及による
買い物客の減少などの影響により
集客力を失い
急速に衰退の道をたどりました。
 
その後さらに、
追い討ちをかけるように
老舗百貨店の撤退や
大型商業施設の閉店などが相次ぎ
一時期柳ケ瀬界隈から
灯が消えたような寂しい状態となりました。
 
 

終わりに

- 華やかなりし頃の柳ヶ瀬 -

娯楽も思考も人心も多様化してしまった昨今ですが、
高齢者や車を運転しない人たちにとっては、
「柳ヶ瀬」に対する思いは強まっています。
それは単に「郷愁」というだけでなく、
「いつでも買い物ができ、
生活に必要な街・柳ヶ瀬を」
「楽しく憩いのある柳ヶ瀬を」
という切実な願望です。
 
 そんな中、商店街の若い人たちを中心に、
柳ヶ瀬を再生させるための
様々な活動や試みが始まっているようです。
そして最近、情報誌や新聞でも、
それらの活動を紹介する記事が
多く見られるようになってきました。
 
私たちエイトグループも
それらに負けないように
柳ヶ瀬再生のため
一助になることができますよう、
精一杯尽力して参りますので
今後ともよろしくお願い致します。
 
 
 
 
伝えたい歴史がある。
創りたい未来がある。
エイトグループは
これからも岐阜とともに
歩んでいきます。 
 
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